目立つまい、目立つまい
「サブカルチャー教養主義」は旧・教養主義同様に、「こんなことも知らないで音楽(漫画、アニメ)を語るな」という、知識による恫喝の形をとったが、「負の教養主義」は、「そんな(漫画、アニメ)なんか知らないよ」と言ってのけることに本意がある。恫喝ではなく、同調圧力なのだ。だから〈知らない〉ことが〈名誉〉になる。
読み込んだアコギのコード(オーディオデータ)を素早く解析し、コードの構成音を個別に編集できる
「ピクシブたん。」/「dokubutu」のイラスト [pixiv]

音楽を無料で(時には違法に?)ダウンロードしたとしても、本当に心を動かされれば「ライブも見てみたい!」となるように、楽しい授業を見たら「この先生の授業に参加してみたい、著作を読んでみたい」となるはずですよね。たまたまですが、ずーっと放置していた東京大学のOCWを久しぶりに見ていたら、関心空間の前田邦宏さんがこんなことを仰っていました(実際のビデオはこちらのページにある、Lec.9の部分でご覧いただけます):

僕はピーター・ガブリエルというアーティストが好きなのですが、ある時彼が「海賊版CDがケニアで出回っていますが、いいんですか?」と聞かれたとき、こう答えたそうです。

「いいことを聞いた。ケニアに行ってライブをしよう」

つまり複製が可能な時代には、複製できないものの価値が上がっていくわけです。

インターネットであらゆる知識がやりとりできる時代、「授業」を限られた人しか見ることのできない、一過性のコンテンツにしておくのはまったくバカげたことなのでしょう。積極的に公開して、「ほら、うちの学校にくればこれが生で体験できるんだよ」ということをアピールした方が、得られる価値は大きいに違いありません。

ニコニコ動画が与えるものを、小飼弾氏は 忘我欲求である としているが、私もそれに同感だ。忘我欲求は、親和・所属欲求の特殊な形態だと考えられる。集団の中で自分の位置(居場所)を確保することが通常の親和・所属欲求だが、忘我欲求は集団に自分を溶け込ませる形になるため、居場所という概念自体が希薄になる。これについては nakanohito が 別の角度から言及 したこともある。

一方、シロクマの屑籠の 私達は、ニコニコ動画で集団的に承認欲求を備給する で展開されている小飼弾氏への反論も、「承認欲求」を「所属欲求」と言い換えさえすれば、これも全く正しい。次のように要約できよう。現在の日本社会では、多くの人は自我/自尊の欲求を満足させるのが無理なので、マズローの欲求段階説で一段下にあたる親和/所属愛の欲求で我慢するのだ と。

こう考えてくると、一つ疑問が沸いてくる。マズローの欲求段階説に従えば、所属欲求の満足された人は次には承認欲求を求めることになっている。はてしない物語 の終盤、イスカールで所属欲求を満たされたバスチアンが「個人として愛される」ことを求めたように。ニコニコ動画でコメントを書いているユーザも、次には個人としての自尊を求めるようになるのだろうか。そうだとしたら、承認欲求を満足させるためのサービスというのが次のブームになるのだろうか (それは前述したように SNS なのかもしれないが)。
もちろんマズローの説は現実とあまりよく合致していないと批判されることも多い。日本人にはそもそも個人と他人の区別が明確でないのでマズローの説が当てはまらないとの指摘もある(シロクマの屑籠もこちらの立場に近い)。しかしながら、所属欲求を満足したユーザが次に何かを求めるのか、それとも満足感の中にとどまり続けるのか、という点は、興味深い話である。

では本当に求めているものは何か考えてみよう。例として、先月 mara が Techdirt から拾ってきた アメリカ音楽界の現状 を見てみる。私が特に注目した点は以下の二つだ。

* アーティストのツアー売り上げも増えてる
* 楽器の売り上げに至っては激増

ツアーと楽器に共通して言えることは、使い古された言葉ではあるが、「体験」ということになるだろう。コンサートに参加することと、自分で楽器を演奏すること。両方とも「唯一無二の体験」である。ニコニコ動画でコメント祭りに参加するのも、そうした体験の一つだと言えるだろう。コンテンツは今や、体験する、あるいは体験を共有するための、トリガに過ぎない。

体験は、少なくとも現在の技術ではコピーできない。コピーできないその場限りの唯一無二のものであるという点で、コピーの氾濫する現代において 相対的な競争力が高まっている と言える。将来技術が進歩して体験もコピーできるようになると、体験さえも競争力を失うのかもしれないが。そのように体験をコピーして売るということを中心的なテーマに据えた SF が、ジョン・ヴァーリィの ブルー・シャンペン である。

人間にはCDやDVDのような物理メディアの形でコンテンツを所有したがる習性がある。しかしこれは、コンテンツ自体を消費者が求めている、ということとイコールではない。消費者は「所有している実感」を求めているのだ。
例えば動画メディアについて考えて見る。「いつでも繰り返し閲覧できます」と言っても、ストリーム配信では所有感が薄い。DRMのかかったダウンロードはその次ぐらいになる。DRM無しのダウンロードはかなり実感が高まってくる。そして物理メディアがあると実感としても最高になる。実はコンテンツの中身よりも、器の方が重要であったりする。

しかしそもそもの疑問として、人はなぜ所有したがるのだろうか。もちろん個人として所有したがるという本能もあるのだろう。しかし人間が社会的な生物である以上、所有についても社会的行動の中で見る視点を欠くことはできない。前回も書いたように、「所有していることを周囲に誇示する」ことが重要なキーになる。

なお、有料化に適したコンテンツについては、(1)タレントやアーティストのリアルタイムな情報を配信するサービス(2)ニュースや教育コンテンツ(3)写真・動画・画像・音声 などを挙げ、幅広い分野で利用できるとしている。
「知らなくても生きていける」と言う人は、「知っていると面白い」ことを見逃しているんだよ。
特に思い知らされたという意味では、綺麗に作ろうとしすぎてるのだなぁと。